1986年。台北の中心街・モンガは、商業の中心地として繁栄する裏側で、多くの極道組織が縄張り争いを繰り広げる、抗争の絶えない街であった。この街に、高校2年生の"モスキート"は、小さな美容室を開店した母親とともに越してくる。父親がおらず、子どものころからいじめられっ子だったモスキートは、新しい高校でも転校初日からクラスを仕切る不良の"ドッグ"に絡まれ、彼の仲間たちに追いかけまわされる羽目になる。その姿を偶然目にしたのが、モンガの街で一番の権力を握る極道、廟口組のボスの一人息子で、幼い頃から校内勢力を仕切る"ドラゴン"と、彼が率いる仲間だった。
ドラゴンは大勢の敵を相手にたった一人で立ち向かうモスキートに興味を持ち、自分の仲間に迎えることを決める。
『こいつの敵は俺の敵』。翌日ドッグにそう言い放ったドラゴンは、モスキートにドッグとその仲間をこてんぱんに殴らせる。こうして初めて人を殴ったモスキートは、極道の世界に足を踏み入れることになった。
最初は極道の世界に戸惑いつつも、次第に仲間とケンカに明け暮れながら、モンガの街で青春を謳歌していくモスキート。廟口組のボス、ゲタ親分の一人息子で、幼い頃から常に注目を浴びてきたドラゴン。仲間の中で一番頭が切れ、誰からも一目置かれる"モンク"。学校の成績も常にトップを誇るモンクは、占い師から5歳の時に極道になると予言されていたことで、父親が彼をゲタ親分のもとに預けた。それ以来、幼い頃からずっとドラゴンと共に過ごしてきたモンクは、常にドラゴンの事を守り、影のリーダーとしてグループを率いている。肉屋の息子でお調子者の"アペイ"、両親を亡くし祖父に育てられた腕っ節の強い"白ザル"と、少年時代からの仲間である4人の中に新しく加わったモスキート。
『指は5本揃って拳になる』。モスキートを仲間に誘ったモンクの言葉どおり、5人となった仲間たちは、次第に絆を深めていく。そしてある夜、血の契りを結び、"太子幇"という組を結成する。それは、【同じ日に死ぬことを願い、裏切りがあれば神の天罰が下る】という、義兄弟の誓いだった。
誕生日を仲間たちから手荒く祝ってもらったモスキートは、初めてドラゴンの家へ行く。ゲタ一つで刀を持つ敵を倒した事からその異名を持つゲタ親分は、家族を集め食事を振舞う気のいい父親の反面、食事中に賭博の借金のかたに届けられた、切断された指を箸で摘むような冷酷な男でもあった。その非情な姿に、モスキートは自分のいる極道という世界を改めて認識させられる。
食事の後、ドラゴンと仲間はモスキートを娼館へ連れて行く。初めての体験に戸惑うモスキートは、そこで顔にあざのある少女・シャオニンと出会い、一晩を一緒に過ごす。小学生の頃の同級生に似ていると感じた彼は、彼女に何もせず、ただ一緒に音楽を聴き過ごす。
ただそれだけで、ケンカに明け暮れているモスキートには気持ちが和むひと時であった。
そんなある日事件が起こる。以前にゲタ親分に届けられた指はドッグの父親、"ドギー"のもので、その事を怨んだドッグは、ドラゴンの恋人を言葉巧に人気のない所へ連れ込み暴行したのだ。それを知ったドラゴンは激怒し、ドッグを捕まえアジトに連れ込みリンチを加える。怒りのあまりドッグを殺しかねないドラゴンの気持ちを汲んだモンクは、彼の代わりにドッグを最後まで痛めつけ、誤って殺してしまう。それを知ったゲタ親分は怒り狂い、ドラゴンをかばい自分一人がやったと告白するモンクを、半殺しにするほど殴りつける。
瀕死の傷を負ったモンクの見舞いに訪れたのは、モンガで廟口組と力を二分する後壁厝のマサ親分だった。ゲタ親分とは義兄弟の契りを交わしながらもライバルであるマサ親分は、重体のモンクを眺めモンクの父にこう告げる。ゲタ親分の手加減のない行き過ぎた非道な行為が、モンクの父の地位と片腕を失わせた原因である、と。そして、朦朧とした意識の中でモンクは2人の会話を聞いてしまう。
モスキートが極道の世界に入ってから1年後の1987年−−。5人はゲタ親分の命令で強制的に山にこもり、武器や格闘の修行をするため厳しい訓練を受ける。訓練が終わり街に戻った彼らは、ゲタ親分からお祝いの席を設けられ、久しぶりに楽しい時間を過ごす。偶然にも、隣室で宴会しているのが後壁厝と知ったゲタ親分は、祝いの席にマサ親分たちを誘う。一堂が囲んだ席には、ドギーに育てられ、ドッグの兄貴分で刑務所から出所してきたばかりの、マサ親分の部下ブンケアン、そして客人である大陸系極道のウルフの姿があった。ウルフと目があったモスキートは思わず目を伏せる。彼はモスキートの母の元恋人で、今なお母の面倒を見ている人物だった。
ウルフは大陸側の組織の窓口として、モンガを仕切るゲタ親分とマサ親分に手を組むことを提案するが、外者を信用しないゲタ親分は申し出を拒否し、マサ親分もそれに同調する。
ウルフは、モンガの旧態依然とした2大勢力の莫大な利益を手中に収めようと、野心的なブンケアンに話を持ちかける。権力を握るまたとないチャンスと感じたブンケアンは、ウルフと水面下で手を組み、陰謀を企て始める。そして、計画を実行するために、以前トラブルを助けたことから縁のあるモンクに話を持ちかける…。
そんな折、何者かによってマサ親分が殺害される。2大勢力の一つである親分の突然の死に色めきたつモンガの街。ゲタ親分は、大陸側の提案を拒否した事がこの事件の火種となったのではと疑う。そんな中、犯人発見の一報を受けたゲタ親分は手下を現場に向かわせ、廟口の本拠地である寺に、一人残る。そして手下がいなくなったことを確認するかのように、一人になったゲタ親分のもとに怪しい客人が押し寄せる…。状況を知らないモスキートは、突然街に鳴り響く銃声を聞きつけ、寺に残っているゲタ親分のところへ駆けつける。そこで目にしたのは胸を撃たれ、既に死んでいるゲタ親分の姿であった…。悲しみに沈む葬式で、行方不明になっているドラゴンに代わり、モスキートは葬式の先頭に立ち、ゲタ親分を殺した犯人に復讐することを誓う。
ドッグの殺害を怨んだブンケアンが、ゲタ親分を殺した犯人だと言うモスキートに対してモンクは真っ向から否定して対立する。あげくに白ザルが瀕死の重体の姿で発見され、彼が持っていた拳銃がマサ親分を撃ったものと一致し、白ザルが犯人に仕立て上げられてしまう。ドラゴンの仲間がマサ親分を殺害したという噂でもちきりのモンガで、もはや廟口組の信頼は失われ、彼らの居場所はモンガになくなりつつあった。
それでもゲタ親分の仇を討つと誓ったモスキートは、自分がいなくなった後に母の面倒を頼むために、ウルフに会いにいく。やけを起こしかねないモスキートに、ウルフはしばらく仲間と共にフィリピンに身を隠すよう諭す。
ウルフの説得を受け、フィリピン出発を決めたモスキートは、別れを告げにシャオニンに会いに行く。
必ず戻るとシャオニンに約束したモスキートは、その帰り道、偶然にもウルフとブンケアンの姿を目撃してしまう。そして、二人と共にいた男の姿を見て、モスキートは目を疑う。なんとそれはモンクだったのだ…。
フィリピン出発の日、モスキートは、ゲタ親分が大事にしていたドスを握り、5人で待ち合わせた寺にむかう。真実を知るため、ゲタ親分の仇を討つため、そして、【同じ日に死ぬことを願い、裏切りがあれば神の天罰が下る】と誓った義兄弟の約束を守るために−−。
台湾映画に新しい生存の道を呈示した『モンガに散る』の監督ニウ・チェンザーは、台湾版『監督・バンザイ!』とも呼ばれる半自伝的作品『ビバ!監督人生!!』(07)で監督デビューするなり、ロッテルダム国際映画祭NETPAC賞を受賞するなど、一躍台湾映画界の未来を託されるようになった。
『モンガに散る』は彼の待望の映画監督第2作目で、前作の極私的な作りから一転、フランシス・フォード・コッポラやジョン・ウーにも通じる大作感、娯楽性を備えた演出力を見せつけた。ニウは、ホウ・シャオシェンの『風櫃(フンクイ)の少年』(83)で主演を務めるなど、いわばホウの薫陶を受けて育った直系の愛弟子。夜叉としては他に同監督の『ミレニアム・マンボ』(01)や、チェン・クンホウ監督の『少年』(83・未)、ワン・トン監督の『バナナ・パラダイス』(89)など台湾ニューウェイブの代表作に出演し、フランス、ヌーヴェルヴァーグにおけるジャン=ピエール・レオのような、台湾ニューウェイブの代名詞男優として活躍してきた。
その一方で2000年代からは、台湾テレビドラマのディレクター、プロデューサーとしてもF4の「部屋においでよ〜Come to My Place〜」、飛輪海(フェイルンハイ)の「花ざかりの君たちへ〜花様少年少女〜」など大ヒットドラマを次々と送り出し、いわば華流テレビドラマブームの火付け役となる。『モンガに散る』は、そんな彼が台湾ニューウェイブ映画の伝統から学んだ、人の心を奥底から揺さぶってやまない作劇術と、華流テレビドラマの経験から学んだ人口に膾炙(かいしゃ)する語り口が、奇跡的にも高いクオリティで融合した作品として成立している。
完成の目処もないまま作られていた『海角七号/君想う、国境の南』(08)とは異なり、『モンガに散る』は、予め旧正月映画としてハリウッド・メジャー(ワーナー・ブラザース)によるローカル配給が約束された中、製作された作品だ。必然的にそれは監督に、ブロックバスター・ムービーとしての大ヒットという宿命を課すことになる。だがニウは、だからといって『レッド・クリフ』(08)のような、既に映画界でネームバリューを確立した大スターでキャスティングを固める道は選択しなかった。
主演を務めるイーサン・ルアンとマーク・チャオは、共に映画の世界では新顔に属するが、ニウがかつて手塩にかけて育て上げてきた次世代の才能を、そのまま映画でも起用したことになる。ほかにも『九月に降る雨』(08)のリディアン・ヴォーン、『一年之初』(06)のクー・ジャーヤンなど、いずれも台湾映画の未来を託すに相応しい"来るべき才能"を思い切って主役級に起用しているのが特徴だ。
スタッフ編成にあたっても、その方針は貫徹。撮影監督には、ニューヨーク・インディーズシーンに関わった後、単身台湾に渡り、『一年之初』『ヤンヤン』(09・未)などの新世代台湾映画のほか、『ビノイ・サンデー』(09・未)、『風声』(09・未)などアジア圏合作作品のカメラマンとして活躍し、"第二のクリストファー・ドイル"とまで賞賛されるようになった若手ジェイク・ボロックを起用。既成台湾映画の小品感とは一線を画した、ダイナミズム溢れる映像で観る者を圧倒した。
また音楽を手がけているのは、フィリピン生まれで、女性シンガーソングライター、音楽プロデューサーとして台湾音楽界で活動するサンディー・チェン。台湾版グラミー賞とも言われる金曲奨で昨年度の最優秀女性歌手賞に輝くなど、現在台湾ミュージック・シーンでトップの地位にいる彼女だが、これまで誰も彼女を映画音楽家として起用したことがなかった。物語設定上はヤクザ映画、アクション映画にも分類できる本作だが、それらのジャンル映画にありがちな音楽とはまったく異質な、甘美でノスタルジー感溢れる彼女の音楽が、本作独自の質感とテーマをさらに浮き彫りにした部分も多い。
ほかに、青春群像劇『九月に降る風』で一躍台湾新世代監督の再注目株に躍り出たエドワード・ヤンの『海辺の一日』(83・未)などで活躍した後、『Orzボーイズ!』(08・未)を大ヒットさせ、突如新世代映画プロデューサーの旗手とも目され始めたリー・リエが手がけている。
『男たちの挽歌』(86)『欲望の術・古感仔』(95)シリーズ、『インファナル・アフェア』(02)など、黒社会もの、チンピラ・アクションものでは数多くの名作と定型化されたスタイルを持つ、中華圏映画界。けれどニウが手がけたのは、そうした中華圏映画の既成ジャンルには決して属さない、まったく新しい大衆娯楽映画の創出だった。前出のサンディー・チェンに"らしくない"音楽を委託したのもそうした姿勢の表れだが、他にも独自の美学創出のため様々な努力が払われている。
その一つが、アクション監督に敢えて韓国のヤン・キルヨンを起用したこと。パク・チャヌク監督作『オールド・ボーイ』(03)のアクション演出で内外に知られる彼の手に、台湾ヤクザ、不良少年たちのアクション指導を委ねることで、伝統的中国アクション映画にはなかった斬新なスタイルを展開することに成功した。
またモンガという街が、伝統的にも、そして80年代当時の"現在"という観点からも、日本文化の影響を色濃く受けていたことに注目。ゲタ、刀、そして桜など数多くの日本由来の符丁が劇中で重要な役割を果たしている。そして、当時台湾でも若者たちの間で一斉を風靡していた中森明菜や近藤真彦のファッション・センスが若者たちのファッション造形に取り入れられ、これも本作を既成の黒社会アクション映画とは一線を画したニュー・スタイルの作品とすることに貢献している。
ニウはゲタ親分を、"日本の統治時代に日本人の精神性を教え込まれ、結果として日本人の心を持った台湾人"として描いたという。「つまりゲタは、台湾の元総統の李登輝と同じ世代の人。ゲタの心の中には武士道を柱とした、日本人の精神が息づいている」と、監督は語る。そのような台湾人がいたからこそ、今の台湾があり、台湾人もいるのだと。かく言う監督も、大の日本びいき。普段から日本製の衣服を身に着けており、「日本の製品が一番だって信じているからね。僕は小さい頃から日本刀に憧れていた。日本刀の形といい、あの独特の輝きといい、あれほどカッコいい武器はこの世にないと思っているよ」と語る。どうやら本作は、監督の日本に対する長年の想いが込められたラブレターだったようだ。
監督・キャストに加え、この作品が台湾で成功した影の立役者として挙げられるのがプロデューサーのリー・リエだ。リーは、台湾では知らない人はいないと言っても過言ではない人気女優だった。『プロデューサーをやろうと思ったのは、台湾の映画界の状況があまりに悪かったから。映画を撮りたい人が、映画を撮れない状況を見て何とかしたいと思ったの』と語る。でも、実際に映画を撮るための資金を集めるのは彼女にとっても大変なことだった。結果的に、自分が製作した『Orzボーイズ!』、『モンガに散る』の2作品は、どちらにも自ら出資をしている。「『Orzボーイズ!』に出資したのは出資金が集まらなかったから。撮影も迫り他に選択肢がなかったから、エイッって思って、出資してしまったの。でも『モンガに散る』への出資は状況が違うわ。この映画の場合は、成功する自信があったから。製作の過程でこの作品には出資したいと思って、自分から出資させて欲しいと申し出たのよ」今も美しく、"女優"と呼ぶに相応しい優雅な雰囲気を失わないリーだが、そのビジネスセンスと企画を見抜く目は相当なもののようだ。
すべてのキャスト、スタッフが絶対服従(!?)だったニウ監督すら、頭が上がらないのもリー・リエだ。前述の通り、資金集めにも奔走したリーだが、実は彼女の大きな功績がもう一つある。「この映画はスタジオで撮影するのではなく、出来るだけロケを行うことが大事だと思った。"モンガ"という場所、街の雰囲気を映画に映し出すことがこの映画には不可欠だったから』。しかしモンガの街は古く、通りも狭く、そこでロケをするにはあらゆる人たちの協力が欠かせなかった。台北市長、萬華口長、そして町長から商店街会長まで。その人たちへの説得に、絶大なパワーを発揮したのが大女優のリー・リエだったのだ。「僕が映画の企画を熱く語るより、彼女が出て来て頭を下げる方が、何より効果があった。特にあの年代の人たちにとって、彼女の存在は絶対だったから。彼女がいなかったら、あそこまでの協力を得ることは難しかったと思う」とニウは語る。そして、『モンガに散る』は萬華地区の人々の協力に対し、素晴らしい恩返しをした。大ヒットに伴い、映画のロケ地は観光客を呼び、ロケ地マップまで出来る人気の観光スポットとなった。『モンガに散る』が萬華地区にもたらした経済効果は、10億円とも言われている。
−現在は「萬華」と書かれることが多い「艋舺」を舞台、かつ主題にした映画を作ろうという発想はどこからきたのですか?
すべてはジェイ・チョウの一言から始まった。あれは04年頃だったかな。当時、台湾映画は不景気のどん底で、僕もテレビドラマの監督をしながら食いつないでいた。ホントは映画がやりたかったけど、そんな機会はどこにもなくてね。でもジェイ・チョウとは当時から親しくしていて、「いつの日かきっと、一緒に映画をやろう」って約束しあっていたんだ。そんなある日、彼から突然電話がかかってきた。「どうだ?僕らの幼かった時代の映画を作ろうよ。タイトルは『艋舺』だ。俺が金も出し、主演もする」って。
あまりに急な話なんで、僕は「ちょっと待って」と言って電話を切り、外に散歩に出て彼が言ったことを反芻してみた。そしたら、彼の言った「艋舺」という二文字をキーワードに、次々映画のシーンの情景が頭の中に鮮やかに、強烈に、浮かび上がってきた。帰宅するなりジェイに電話したよ。「よし、一緒にやろうじゃないか」って。結局当時、この話はおじゃんになっちゃったんだけど……。
−彼のアイディアのどんな部分に触発されましたか?
何よりもまず「艋舺」という二文字。とても意義深くて、多様なイメージを触発する街の名前だなと思った。日本統治時代に日本人によって、末永く華やかであるようにという意味も込めて発音の似た「萬華」に書き改められたけど、もとも「艋舺」は台湾先住民の言葉で「小船」を意味していた。そしてこの一帯が小船の集まってくる場所だったので、「艋舺」と呼ばれていたんだ。実際艋舺は河に面していて、清朝時代から最も栄えていた場所。台北の発掘の基礎となった街でもある。そこに人が集まり、商売の場所が集まり、金が集まり、極道も集まり、娼婦も集まり、一方で仏教も集まって、とにかく何でも集まって来る場所となった。自分が幼かった頃も、まだそんな華やかな面影を留めた街だったのを覚えている。特にヤクザと女が集まる街としてね。
−そんな街を舞台にして、物語は80年代に設定して語り起こされます。これは66年生まれの監督にとって
自身の青春時代とぴったり重なるからでしょうか?
艋舺という名前と自分の青春が結び合って色々なアイディアが溢れ出てきたのは、たしかだ。でもそれのみを理由に時代設定を決めたわけではない。もう一つの大きな理由は、この時代こそ、台湾の社会、国家が転換点を迎え、高度経済成長、限りなく明るい未来へと急激に舵を切った時代でもあるということ。60〜70年代の日本に例えることもできるだろう。希望がいっせいに溢れだし、政治が一党支配していた国民党の手から民衆の手へとようやく戻って来た時代でもある。そしてそんな時代の狭間に、艋舺も変化の荒波に襲われた。栄華を極めた繁華街から、下町になった。つまり廃れたということだ。『モンガに散る』という作品は、従って、あの時代こそが面白いという感覚、あの街こそが面白いという感覚、そして自分の青春というものに対する感覚の3つが合わさって出来上がった映画だと言えるだろう。
−その時代は、奇しくも台湾ニューウェイブ映画が最も華やかに花開いた時代でもあります。
そのとおり!当時、時代の大変化があったからこそ、台湾ニューウェイブが生まれたのだと、僕は思っている。そのなかで僕も、言わば台湾ニューウェイブの申し子として育ってきた。9歳から子役として演じ始め、16歳で『少年』に出演し、またホウ・シャオシェンの『風櫃(フンクイ)の少年』に出演したことで、多いに啓蒙された。ニューウェイブ映画に関わったことで、もっと映画をやってきたいと思い、どんなに苦しくても映画を諦めないという姿勢を学んだんだ。台湾映画界の不景気で多くの人は映画の夢を諦めたけど、自分がそれをけっして諦めなかったのはニューウェイブ映画に直に触れたから。その当時抱いた夢が今、やっとかなったわけだ。
−『風櫃(フンクイ)の少年』や『ミレニアム・マンボ』への出演で、ホウ・シャオシェンの愛弟子とも呼ばれる監督ですが、今回『モンガに散る』を作る上で彼から学んだことは役に立ちましたか?
実は10代の頃から、ホウ・シャオシェンみたいな映画だけは作りたくないと思っていた(笑)。だから愛弟子というより、単なる弟なのかもしれないね。でも、当時感じたそういう思いが、『モンガに散る』の上に反映している。ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの映画は海外でも大きく注目されたけど、国内の観客には近づきがたい感覚があった。一方でもちろん、当時のニューウェイブ以外の映画はクオリティも粗く、俳優の立場でも不満足なものばかりだった。自分が作りたかったのは、そのどちらにも属さない映画だ。情感と質感に満ち、笑えて泣ける映画。そして感動を家まで持ち帰れるような映画。そんな映画を作るにはどうすればよいのだろうと、17歳の頃からずっと考え続けていた。その自分なりの答えが『モンガに散る』だ。
でも、見かけはホウ・シャオシェン映画とはだいぶ違ったものができたけど、やはり彼の影響は色濃く残っているかもしれないな、とも思う。人生に対する態度、感情の描き方、映画作りに対する精神、あるいは男はどうやって迫力を出せばいいのか、なども含めてね(笑)。そして台湾ニューウェイブを生み出した80年代当時の時代の気分が、この映画に強く刻印されていることも間違いない。
−実際『モンガに散る』には、ホウ・シャオシェン映画のみならず、典型的台湾映画とはまったく異質なものを創り出そうとする監督の意思を強く感じます。
自分に言わせれば、これはどんな台湾映画の文脈上よりも、むしろ『ゴッドファーザー』とか『ランブルフィッシュ』に比肩すべき映画だね。それらの作品が持つ、台湾映画にはかつてなかったスケール感と時代感を造形しようとした。同時に香港映画によくある黒社会アクションものの一本にも収まらないよう注意した。もっと台湾の地に根ざした、独自のアクションを展開したかった。とはいえホウ・シャオシェン映画の喧嘩シーンみたいな、ひたすら取っ組み合って掴み合うのとは異なる美学を持ったアクションだ(笑)。敢えて韓国から『オールド・ボーイ』のアクション監督を招いてみたのは、そうした思想の表れ。あの映画のアクションに、目指すべきリアル感へのヒントがあるように感じられたからだ。
−80年代の艋舺に生きる若者たちの物語を通じて、監督がもっとも描きたかったことは?
誓った絆を破らずに、一緒に夢を追いかけていく姿。一時はバラバラになってしまう時期があっても、最終的に彼らが成長して過去を振り返り、友情を再確認する姿……。そうしたものを語ってみたかった。ある時代の記憶のなかで、ある青春の物語を通じて、そこに生きる若者たちが謳歌する友情とその傷つきやすさを描き出そうとしたのが、『モンガに散る』なんだ。
1966年生まれ。75年『台北今昔』(未)で子役デビュー。その後台湾ニューウェイブの真っ直中で、ホウ・シャオシェン監督の『風櫃(フンクイ)の少年』(83)、チェン・クンホウ監督の『少年』(83・未)、ワン・トン監督の『バナナ・パラダイス』(89)などに出演し、台湾ニューウェイブの代名詞的役者として成長。2000年からはテレビドラマの監督・プロデューサーとしても活躍するようになり、「トースト・ボーイ's キッス」、「部屋においでよ〜Come to My Place〜」「求婚事務所」「花ざかりの君たちへ〜花嫁少年少女〜」「墾丁(ケンティン)は今日も晴れ!」など、台湾トレンディ・ドラマのヒット作を数多く生み出す。
いわば華流テレビドラマの総帥として栄光の頂点に立つ彼だが、一方でそうした活動の裏に潜む苦悩を赤裸々に描いた『ビバ!監督人生』(07)で映画監督デビューを果たす。この作品で、ロッテルダム映画祭NETPAC賞ほか国内外で数多くの賞に輝き、一躍台湾映画界のニュー・ニューウェイブ監督の旗手とも目されるようになった。『モンガに散る』は映画監督第二作目。役者出身の出自を持つゆえ、両作品共にメガホンをとりながら俳優としても出演している。
品番 BIXF-0035
発売日 2011/08/02
価格 4,700円(税抜)
画面 16:9シネスコ[1080p Hi-Def]
字幕 日本語字幕
音声 台湾語ドルビーTrueHD5.1chサラウンド
公開日 2010年12月公開
製作国 台湾
製作年 2010
特典
<特典映像>※予定
(約114分) ※特典映像は一部を除き、SD画質
●キャスト・スタッフ プロフィール (静止画)
●予告編+TVスポット集
(日本版劇場予告1種+本国版劇場予告1種+日本版SPOT1種)
●メイキング(1)
●メイキング(2)
●イーサン・ルアン 来日インタビュー
●マーク・チャオ 来日インタビュー
●ニウ・チェンザー 来日インタビュー
●イーサン・ルアン&マーク・チャオ 2ショットスペシャルメッセージ
※以下、Blu-rayのみに収録
●撮影の裏側(3種)
●未公開シーン(4種類)
●NGカット集
●ベルリン映画祭でのプロモーション模様
●第23回(2010年)東京国際映画祭上映時の舞台挨拶
品番 BIBF-8055
発売日 2011/08/02
価格 3,800円(税抜)
画面 16:9LBシネスコサイズ
字幕 日本語字幕
音声 台湾語ドルビーデジタル5.1chサラウンド
公開日 2010年12月公開
製作国 台湾
製作年 2010
特典
<特典映像>※予定 (約50分)
●キャスト・スタッフ プロフィール (静止画)
●予告編+TVスポット集
(日本版劇場予告1種+本国版劇場予告1種+日本版SPOT1種)
●メイキング(1)
●メイキング(2)
●イーサン・ルアン 来日インタビュー
●マーク・チャオ 来日インタビュー
●ニウ・チェンザー 来日インタビュー
●イーサン・ルアン&マーク・チャオ 2ショットスペシャルメッセージ